※この記事は映画『ゴッドファーザー』Part I & II のネタバレを含みます。
ゴッドファーザーのPart IとPart IIを続けて鑑賞すると、単なるマフィアの抗争劇ではなく、ヴィトーとマイケルという二人のドンが見せる対照と、その背後にあるアメリカの変質がくっきりと浮かび上がります。
なぜPart Iは人間臭く、Part IIは美しくも冷たいのか。二作品を貫く軸を整理します。
1. 「愛される父」と「恐れられる息子」
まず圧倒的に違うのが、組織のトップとしての在り方です。
Part Iのヴィトー・コルレオーネは、街の人々から深く慕われていました。法律が及ばない移民社会で「持ちつ持たれつ」を築き、困りごとに手を差し伸べることで信頼と権力を得ていたのです。彼はマフィアでありながら、そこには確かな体温がありました。
対してPart IIのマイケル・コルレオーネは、冷徹そのものです。彼は非常に有能ですが、部下からも、そして妻や家族からも恐れられています。父の時代にあった人間的な温かみは消え失せ、ただただ冷たい論理だけで組織を動かしていきます。
ヴィトーは愛されながら人生の幕を閉じましたが、マイケルは権力の頂点で孤独を深めていく。この対比だけで、物語の温度差が伝わってきます。
2. 「法なき時代の義理」と「法治国家の癒着」
この二人の違いは、彼らが生きた時代背景、ひいてはアメリカの法整備の状況と深く結びついています。
ヴィトーの時代、アメリカの法律や社会システムはまだ未成熟で、特に移民にとって公的な助けは期待できませんでした。だからこそ、法を破ってでもコミュニティを守るヴィトーの存在は「必要悪」であり、ある種の正義でもありました。
一方、マイケルの時代になると法整備が進み、アメリカは近代国家としての体裁を整えます。しかし皮肉なことに、マイケルはその整った法律を逆手に取ります。「合法的」にビジネスを展開すると言いながら、裏では法を盾にし、政府中枢と癒着して利権を拡大していくのです。
「法を守らないが、人の道(義理)を持っていた父」 「法を熟知し利用するが、人の道を失った息子」
この逆転現象こそが、本作の鋭い社会批評になっています。
3. 家族を守るための「兄殺し」という矛盾
この物語の最も悲劇的な点は、「ファミリー」という言葉の二重性にあります。
マイケルは常に「家族(Family)を守るため」に行動していました。マフィアとしての組織(ファミリー)を強大にしたのも、元を正せば血縁の家族を守るためだったはずです。しかし、組織を守るという論理が強くなりすぎた結果、彼は最終的に実の兄であるフレドを殺害します。
「マフィアとしてのファミリーを守るために、血の繋がった家族を殺す」
これはヴィトーの生き方とは決定的に異なります。ヴィトーは孫と庭で遊びながら穏やかな最期を迎えましたが、マイケルは兄を殺した罪悪感と虚無を抱えて生きていくことになる。守りたかったはずのものを自らの手で壊さざるを得なかったマイケルの姿は、あまりに悲劇的です。
4. 暖色と寒色が描く「アメリカの変質」
映像演出においても、この対比は見事に表現されています。
Part I(およびPart IIの過去編)では、画面全体が暖かみのあるオレンジ色で統一されています。これは、まだ何も整っていなかったけれど、人々が助け合い、熱量を持って国を大きくした開拓時代のアメリカそのものです。
対照的に、現代のマイケルを描くシーンは青みがかった冷たい色調が多く使われています。これは、アメリカという国が成長しきり、巨大な資本主義に飲み込まれた姿を映し出しているかのようです。政治と経済が癒着し、国家としての強さを維持するために、時には自国民さえも傷つけていく冷徹なシステム。
『ゴッドファーザー』におけるコルレオーネ家の歴史は、「助け合いで成り立っていた開拓時代のアメリカ」が、「冷酷なシステムが支配する覇権国家アメリカ」へと変貌していく過程そのものを描いていたのではないでしょうか。
さいごに
Part IとIIを通して観ることで、単なるギャング映画の枠を超えた、アメリカという国の光と影、そして「力を持つこと」の虚しさを深く味わうことができます。
オレンジ色の夕陽のような温かさと、凍てつくような青い孤独。その色彩の対比の中に、コルレオーネ家の、そしてアメリカのすべてが詰まっている気がします。

