『チ。』を異端審問官ノヴァクの視点で再考する:非宗教世界における息苦しさについて

Reframing “Chi” Through Inquisitor Novak: Suffocation in Secular Worlds

信仰を守る側として登場するノヴァクは、組織の論理と個人の信念が衝突する現代の「非宗教的」な文脈にこそ重なる。彼の葛藤を手がかりに、異端が生まれる構造と、息苦しさを和らげるための視点を整理する。

ヒーロー画像

~正解だらけの世界で、なぜ私たちは息苦しいのか~

漫画『チ。-地球の運動について-』は、地動説という「真理」に命を懸けた人々の物語だ。しかし、この物語を裏側から、つまり異端審問官ノヴァクの視点で読み解くと、全く別の景色が見えてくる。

彼は、単なる残虐な悪役ではない。彼は、この物語における「秩序(オーダー)」の主人公だ。「何が正しいか(真理)」よりも、「世の中が平穏であるか(秩序)」を徹底して優先した男。

彼の視点で物語を再構成すると、科学が勝利した現代で私たちが抱える「生きづらさ」の根源が、静かに浮かび上がってくる。

1. ノヴァクの正義:「真理」よりも優先された「社会の平穏」

ノヴァクの行動原理は一貫している。それは狂信的な信仰心というよりは、極めて実務的な「管理者の論理」だ。

彼が恐れたのは、神への冒涜ではない。異端思想(地動説)が広まることで社会のタガが外れ、混乱と戦争が起き、現在の生活が破壊されることだった。

彼にとっての「正しさ」の定義は明確だ。

「地球が回っているかどうか」は、彼にとって重要ではなかったのかもしれない。重要なのは、その事実を認めることで社会という物語にヒビが入るかどうか、その一点だった。

2. 「正しさ」が一つだった世界

現代に生きる私たちからすると、過去の宗教の名の下に人の命が奪われた歴史は、全く理解しがたいかもしれない。それは、現代と当時とでは「正しさ」の定義が根本的に異なるからだ。

現代において、「科学的な正しさ(事実はどうか)」と「道徳的な正しさ(人としてどうすべきか)」は、全く別の問題として区別されている。しかし、物語の舞台となる時代では、この二つは分かちがたく結びついていた。C教の教えこそが、唯一絶対の「正しさ」であり、それは科学であり、道徳であり、世界の秩序そのものだったのだ。

科学的な事実(例えば重力)は、誰かが疑ってもその機能は変わらない。しかし、宗教という「物語」は、「みんなが信じている」という共同幻想だけが支えだ。ひとたび疑いの目が向けられれば、その世界の「科学」も「道徳」も、すべてが同時に崩壊してしまう。

だからこそ、当時の世界において「疑うこと」は、単なる探究心ではなく、世界のすべてを根底から覆すテロリズムに等しかった。ノヴァクが守ろうとしたのは、このあまりに脆く、しかしすべてを内包した「物語」だったのである。

3. 好奇心という名の「冷徹な暴力」

『チ。』という作品が残酷なのは、主人公たちのキラキラとした「知的好奇心」が、ノヴァクの視点から見ればテロリズムそのものであると描いている点だ。

ラファウたちは、悪気なく空を見る。計算する。「美しいから」という理由で、既存の物語を否定する。科学とは、空気を読まないことだ。そこにどんなに多くの人が安らぎを感じている物語があろうと、「事実は事実である」と冷徹に突きつける。

単純な真理 > 複雑な物語

ノヴァクの戦いは、この配慮のない真理の暴力から、虚構によって守られた平和を守り抜くための防衛戦だったと言える。彼は真理に負けたのではない。「秩序」という名の正義を貫こうとして、止められない時代の奔流(パラダイムシフト)に飲み込まれたのだ。

4. 科学という「寒空」の下で、私たちは生きている

結果として、ノヴァクは敗北し、科学(地動説)が勝利した。私たちはその「戦後」の世界に生きている。しかし、手放しで「現代の方が幸せだ」と言い切れるだろうか。

正直に言えば、大多数の人間にとっては過去の「宗教的世界観」のほうが、居心地が良かったはずだ。

かつての世界では、人生に最初から「意味」が与えられていた。理不尽な苦しみにも「神の試練」という意味があり、努力した先には「天国」という救いが約束されていた。

一方、科学はどうか。科学は「事実(How)」は教えてくれるが、「意味(Why)」や「救い」はくれない。「死んだらどうなるか?」という問いに対し、科学は「有機物が分解され、無に帰すだけ」と冷たく言い放つ。

科学が勝ったことで、私たちは「世界という物語に守られている安心感」という防寒具を剥ぎ取られ、ドライで味気ない宇宙に放り出されてしまったのだ。

5. 「神の死」と、現代の渇き

ニーチェが「神は死んだ」と宣言して久しいこの時代。私たちは「物語」を失った心の穴を埋めるために、必死で別の何かにすがろうとしている。その最たるものが、資本主義における成功の物語だ。

「徳」の代わりに「金」を積み上げ、「天国」の代わりに「老後の安泰」を願う。科学と同様に「数値化できるもの」だけを信じるこの新しい物語は、一見すると合理的だ。しかし、いくら数値を追い求めても、かつて宗教が与えてくれたような「魂の平安」は訪れない。

私たちは結局、主観でしか世界を理解できない生き物なのだ。科学がまだ解き明かせていない領域(心、愛、死後の世界)のほうが圧倒的に大きいのに、無理やり「科学的・合理的であれ」と自分に強要することが、現代特有の生きづらさを生んでいる。

結論:それでも回る地球の上で、物語を

『チ。』の主人公たちが命を賭して「真理」を求めた姿は、間違いなく美しい。しかし、彼らが勝ち取った「科学的な世界」で生きる私たちは、その勝利の厳しさも知っておく必要がある。

科学は、世界を正しく説明するが、世界を優しく包んではくれない。

だからこそ、私たちは認めてもいいのではないか。「正しさ(科学)」と「救い(物語)」は別物である、と。

私たちは科学の恩恵を受け、事実を尊重しつつも、心のどこかで非科学的な「祈り」や「物語」を持っていていい。「努力は報われる」「死んだら星になる」、そんな科学的根拠のない物語を、自分の主観のために信じたっていいのだ。

『チ。』が教えてくれたのは、既存の強固な物語を疑う知性の尊さだ。ならば私たちは今、「科学万能・合理主義」という現代の巨大な物語に対しても、かつてのラファウたちのように、疑いの目を向けるべきなのかもしれない。

科学的に正しいことだけが、人間にとっての「正解」ではないのだから。